夕陽の丘 

耕平さんは数年前にトヨタ系の販売会社を定年退職後、しばらくの間静岡のFMハイで30分の音楽番組「里山フォーク」のなかで、ご自身のオリジナル曲を中心に放送されていました。あるきっかけで僕の歌を耳にした耕平さんは、二十歳の時、昭和44年(1968)に作った曲を歌ってみて欲しいと頼まれてきました。曲のタイトルは「夕陽の丘」です。ベトナム戦争で愛する人を亡くした人々の心を描いた曲です。

富士山に向かう特急電車の中で、耕平さんが送って下さった歌のデモを聴いてみました。夕陽に染まった小さな丘に愛する人たちが静かに眠るという光景が目に浮かび、とても綺麗なメロディーで心が洗われるようでした。初めて聴いた曲ですが、感動して涙が溢れました。そしてこの曲を歌い、戦争で愛する人を亡くした一人でも多くのベトナム人と日本人に、耕平さんの熱い想いとメッセージを届けたいと思いました。

耕平さんは1968年のバージョンでアレンジして下さいました。僕はどう歌ったら、曲の雰囲気とアレンジに合い、戦争の悲しみと損失を伝えられるのかと考え、子守唄を歌っているように歌いました。

ベトナム戦争が一番激しい時に、遠くはなれた日本から、二十歳の青年がこんな素晴らしい曲を書いて見守っていてくれたということを知ってほしいとも思います。そして、耕平さんのように平和を愛する人々が世界には多くいると僕は信じています。では、聴いてみて下さい。

060.gif 日本語ヴァージョンのリンク


夕陽の丘 日本語ヴァージョン

060.gif ベトナム語ヴァージョンのリンク

夕陽の丘 ベトナム語ヴァージョン

下は耕平さんからのメッセージです。是非お読み下さい。
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結城耕平

ベトナム人の皆さん、はじめまして。私は結城耕平です。

この曲ができたのは1968年で、私がまだ二十歳で、中央大学で法律を学んでいた頃でした。当時、ベトナム戦争は激化の一途をたどっていましたが、当初は、新聞で目にする以外あまり詳しい情報がなく、現実に何が起こっているのかよく分かりませんでした。そんな中戦場から次から次へと送られてくる従軍カメラマンの悲惨な写真を見た時、大きな衝撃を受けました。

たとえどんな理由があろうともそれまで平和でのどかな暮らしをしていた何の罪もない人たちが悲惨な戦争の犠牲になって行くことは、あってはならないことです。和平を求める声が日増しに強くなって行きました。私自身積極的な行動はあまりとれませんでしたが、そんな中で脳裏にひらめいたのがこの「夕陽の丘」でした。それは私にとって人生初めての曲でした。当初は、学園祭や野外のイベントで大衆に訴えるつもりでしたが、太平洋戦争敗戦後事実上アメリカ主導の下でようやく、復興してきた日本の自主独立を求めて変革を迫る勢力と保守勢力の熾烈な衝突が繰り返され、社会情勢も悪化し、学園紛争も激しくなり、暴力学生を排除するという名目で、大学がロックアウトされてしまい、キャンパスに立ち入ることができなくなり、コンサートどころではなくなってしまいました。結局そのまま就職しこの歌はその後今日まで封印してしまいました。社会人になってからも働きながら音楽活動を続け、故郷の自然の中で平和の大切さを間接的に訴えてきましたが、ベトナム戦争のことは現実の生活に追われ発表の機会もなく、ずっと心残りでした。数年前に会社をリタイヤした後この想いは更に強くなり、私自身もそうですがそれ以上に直接ベトナム戦争を体験した人々が高齢化している中で、元気なうちに何とか一人でも多くの人に聴いてもらうため、日本ベトナム文化交流協会顧問で城西国際大学のダオ教授にお願いし、ベトナム語の訳詞が完成しました。ハイチュウ君がそれを歌い継いでくれることになり、学生時代何もできなくてずっと悔んで来ましたが、ようやく胸のつかえがなくなりました。当時平和を求め立ち上がった多くの日本の若者達も還暦を過ぎた今日、皆想いは同じです。ハイチュウ君は詞の深い意味を理解し、より歌いやすいように修正を加え、持ち前の透き通るような声で、歌ってくれています。まるで荒野に吹きわたる風のように、ベトナムだけでなく平和を愛する世界の人々の心に響き渡ると思います。華やかな舞台にあこがれる若い世代なのに敬服するとともにベトナム人の誇りと優しさを感じます。

「愛する人を守るため」「野に咲く花を護るため」戦場に散った多くの人々にこの歌を捧げます。

2014年1月

翻訳:チュオン・タイン・トゥイ

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by haitrieu | 2014-04-05 11:45
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